↑この件に付け加え
もう一つこの連休に面白いことがありました。
山の中の民家で3~4家族が一緒に過ごしたんですが、
だいたいいつものHippoネームで名前を呼び合ってたんですが
それでも親子間では
「お母さん」「母ちゃん」「ママ」「かか」
「お父さん」「父ちゃん」「パパ」「トト」とか
子どもが呼ぶわけです。
そんな時間を過ごすことで、
三男が自然と他の家族の真似をしだしました。
自分の父ではない人を「とと」と言ったり
自分の母(私)ではない人を「かか」と言っていたそうです。
なんだか、
これこそが自然習得的であり
多言語的だなと思いました。
***
そういえば
三男は一時期
私の妹たちの旦那さんのことも
「パパ」「お父さん」と言っていて、
全てが「父」になるということにきづいてなかった時期がありました。
今はもう分かっていますが、
それに今回「とと」が加わったんですが、
まだ「とと」が「父親」を指しているということには
気づいてないかも?
どちらにせよ、
多言語で育つと、
「一つ」に対して名前が「一つではない」ということを知ります。
それは、
大したことないように思いますが、
私は結構大きなことだなぁと思っています。
うまくことばにできませんが。。。
選択肢も広がるし、
感覚が狭まらないように思います。
感覚が狭くないから、
誰かが間違っていても、
それもありうるのかもと思えたり、
もう少し考える余地を持てたり。。。
つまり受け入れられる状態になるように思います。
***
かつて
マレーシアから帰国したころ
二男がカマキリを見つけて
「あ! mantis!」
って保育所で言ったことがあるんですが、
他の子たちにダメ出しされました。
「違うで~!かまきりやでー!」って。
年齢的にも そりゃそうなるよなとは思いますが、
多言語の国? 環境だったら
あんな一斉にみんなにダメだし攻撃を受けることもなかったんじゃないかと思うのです。
たったそれだけのことですが、
「人の声を聞ける人になること」にも
より強くつながっている気がしました。