このZoom企画の時の二男がおもしろかったので、
今日は↑この続きの話というか、
この時の二男について。
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まずは、
①相変わらずの二男という話。
Zoomで話すのは、
多分「慣れ」というか、、、
二男にとって ある種「日常」。
特に準備することもなく、話し始めていました。
見ていて感じるのは
対談のほうが楽しそうということ。
当たり前か!
会話するように話を展開できるから
やりやすいんだと思います。
特に今回は
夏に 太湖で共に過ごしたお兄ちゃんだし!!
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②「けんか」
最初の二人の掛け合いの中で、
どんどん聞いたことのない話が出てくるのが面白かったのですが、
やたら聞こえてくるのが「けんか」ってワード!!
二男どんだけやり合ってたんだ。。。と思ったけど、
聞く限り、
二男には身に覚えがなかったらしい。。。
表情が「え??」って顔してたんです。
つまり、喧嘩をしているつもりがなかったみたい。。。
それで思ったのが、
中国の子たちの
話す勢いに 負けじと二男も声を出して
自分の主張をしたのだろうということ!!
はたから見たら、けっこう言い合ってたんだろうな。。。🤣
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私がその昔 中国を旅したとき
みんな「やたら声がでかいなぁ」って思ったんです。
特に驚いたのは博物館などの館内!!
日本では静かに見るのが通常?なので、
かなり衝撃でした。
こんな博物館とかの中でも 大声で
まるで喧嘩のごとく話すの!?って思ったこと、
今でも忘れられません。
「自分の主張を通す!」
これがきっとあの大きな大陸で生き抜く必須条件だったんだろうと思います。
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それを思えば、
二男も負けじと 声を荒げてきたんだろうな。。。
勝ち気な性格だし🤣
共に過ごしたお兄ちゃん曰く、
「二男は英語話せるからな!」
って言ってたので、
対等に渡り歩いてきたんだろうと思いました。
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喧嘩と思われてた出来事の一つは
スーツケース事件でした。
詳細はこちら↓
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③熟語
残念なことに、二男君なかなか熟語が頭に入りません。
惜しい!!ってことが多々あります。
この日の対談中も何度も惜しいワードがありました。
ありがたいことに、
高校生Cお兄ちゃんは、
そこをちゃんと二男のことばとして受け止めてくれていました。
いちいち 突っ込まれてたら
きっと勝ち気な二男のことだから
拗ねて話にはならなかったと思います。
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★国産ではないと言いたかったんだと思うんだけど。。。
外国産って言いたかったんだと思うんだけど。。。
「がいさん」でした🤣
★朝食だったかなぁ。。。
「あさしょく」って言ってたような。。。
惜しい!!
けど、二男にしてはよく頑張ったほうかな。
なんとなくでも そういう熟語のことばが頭をよぎるようになっただけ
成長だと思います!!
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④対談として意識している!
上の3つに関しては
ある意味ネタです。
で、
最後に真面目な話をしますが、
ちゃんとその時間が何のためにあるかを意識していたと思うのです。
夏に11歳になったばかり。
つまり
まだ この世に生まれて11年。
それなのに、
この時間をどう使うか、どう過ごすか、わかっていたんです。
自分の話だけをだらだらするわけではなく
相手の話も聞くし、
突っ込んで聞きたいことがあったら質問もしていました。
さらに、
私が「Cに少し話してもらうね!」
って時間を分けた後は、
Cの話をもうちょい引き出そう的な意識が働いているかのような質問が出ていました。
なんというか、
深堀りしようとしていたように思います。
ただし、多分「無意識」!!🤣
これが「環境」によって自然に身についた「力」だということに
二男は気づいていないと思います。
かなり、すごい力です。
「場」をまわすことのできる力。
いろいろなことに気をまわしながら
自分のことばもつむぎながら・・・
一朝一夕にはいかない気がします。
もちろん
この日は高校生のお兄ちゃんと一緒だったから
より一層 気をはることなく
自然体で話せていたと思います。
最初の話の切り出しも してもらえていたし。
でも、もしこの高校生お兄ちゃんCが
話をし始めなくても
二男は話の流れを作ったと思います。
いつもそうなんですが、
相手の出方を見ます。
一歩出るか、待つか。
その見極める力もすごいなぁと思ってみています。
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こういう「力」が、この環境で確実についていくのですが、
本当に 語りつくせないほど
いろいろな力、感性、技、価値観、、、などなど、、、
つくんです!!
気づけば備わっている!
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つまり、
「生きる力」につながるんだよなぁ。。。
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この環境で育つものについて
今まで何度となく書いてきました。
いや、正直書ききれないんだけれど🤣
例えば。。。↓
そして、
特に最近思うのが、
このヒッポの「環境」が凄すぎるなぁと感じるのです。
「多言語環境」であれば こんな風に育つか!?
否!
それは 違うんです。
インドやマレーシアやアフリカや。。。
ただただ多言語の中にいれば つく力だというわけではありません。
確かに「話せる」ようにはなると思います。
状況的に「音」にはあふれているだろうから。
そして、
もちろん「多」の中で育つ分、
柔らかく育つ人も多いとは思います。
でも、
ここでいう「人間」が育つという意味では、
ただの多言語環境では成り立たないと思うのです。
ここの人たちは
一人一人違うけれど、
ことばと人間を自然科学しているという点において同じです。
そこがぶれずに生きている人の中で育つということが重要な気がします。
つまり
目の前の「人」を
その背後にあるモノ全てをひっくるめて大切にする。
興味を持つ。
すべてはそこから。
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先日 ある準備会で話したんですが、
私、気付けば
子どもたちへの接し方が
昔とずいぶん変わっていることに気付きました。
ことばにしたら たいした話ではないのですが、
「教えない」と「待つ」。
この二つが
知らない間に自分にしみこんでいたのです。
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詳細は後日書きますが、
この「環境」が既に「ある」という凄さを
最近しみじみ感じています。
45年の蓄積か。。。
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正確には
環境は「あるものではない」んです。
でも、
ここにはある。
作り続けている人たちがいて、
そこに
自分も作り手として入り込むという意味で「ある」と言っています。
0からじゃないことの
ありがたさ。
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これは、ある場所で
0から作ろうとして 初めて感じたのかも。。。?
その辺 自分でもまだことばになってない気がしますが、、、




