「当たり前」に目をむける&「話せる」ということ

その他
新潟のHippoにお邪魔中の一コマ

最近、ある人の話を聞きました。

長年Hippoに所属していて

ファミリー活動の場を開いている方です。

つまり、フェロウ(研究員)さんです。

その方曰く

最近Hippoに入ってくれる方が、ヒッポの良さ(主に、受け止めてくれる、のびのび育つなど)を嬉しそうに話してくれる度に『なんでそうなったのか知ってるかなー』って思うの。『居心地のいい場を作りたい』だけでフェロウやったらいつか行き詰まる。居心地の良さは人によって違うから。

という思いを抱えながら

大元の話をしてくれました。

その話の中でとっても印象的だった二つのことについて話したいと思います。

★一つ目は

『当たり前』に目を向けるということ。

Hippoは赤ちゃんがその環境にあることばを自然に話せるようになるという『当たり前』に目を向けています。

林檎が落ちたとき「どうして?」なんて思わない。

ニュートンさんすごい!

それと全く同じように

日本の赤ちゃんが日本語を話せるようになる

その『当たり前』に対して「どうやって??」と思ったのってすごい!って話でした。

実は、私も同じことを思ったことがあります。

林檎が落ちるのを不思議に思えるそのセンス!

こんな当たり前のこと不思議に思ったことなんてない!

でも、言葉はどうして?とは思ったことは なかったけれど、

知っていました。

分かっていました。

とっくに体験を通して分かっていたんです。

だから、

いつか子供が生まれて海外に住むようなことがあれば

日本人学校ではなく、現地の学校に入れたいと思っていました。

つまり

現地校に入れることに対して 何の心配もしていなかったのです。

そこで育てていたら、

その場所のことばが話せるようになると分かっていたんです。

そんな自分の考えに気付けたのは、

ニュートンとHippoをつくった榊原さんを一緒に話してくれたおかげです。

改めて そうやん!すごいよな!って思いました。

★二つ目!

話の最後のあたりに

「話せる」ということについて話してくださいました。

人によって「話せる」っていうのは定義がバラバラ。。。

その人自身でも言語によってその感覚が違ったりもします。

ある人は、英語で論文まで書けるのに、

英語を「話せると感じたことはなかった」体験を語ってくれたことがありました。

それなのに その人は

たった数語しか知らない別の言語を使って

話が通じた体験から「話せた」と実感したそうです。

たった数語しか知らないのに!!!

この差は何なんだろうって私もずっと思っていました。

「話せる」ってどういうこと?

どれくらい話せたら、話せるっていっていいの??

正確なことは何一つ分からなくても、通じた感満載の時あります。

それって「話せた」って思っていいと思うんだけど。。。

ずっとふわぁっと自分の中で思っていたことを

その方はズバッとイラストにして話してくれました。

『受け手+話し手』

この二つの集合で一つの大きな「話せる」という〇になります。

もう感激以外の何物でもありませんでした!!!

そうなのそうなの!!!それなのよーって思いました。

つまり、

受け手の存在次第で、

大して話せる能力がなくても「話せたことになる」んです。

そして、Hippoのすごいところは

話し手だけでなく

人の話を聞くという受け手をとても上手に育てているところです。

この日の話に

私は半ば目からウロコ状態で

本当に、画面で分かるくらいのリアクションをしていたと思います。

最近、想いをことばにすることに対して

とても難しさを感じていたのですが

この方の話を聞いたことで、

すごくどんよりしていたものがスカッと晴れ渡っていったのを覚えています。

そう、ことばにすることが自然科学。

そりゃ難しいよね(*ノωノ)

その方曰く『講師の話=研究発表』だそうです。

その考え方もまた面白いなって思います。

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