そんなの別に「多言語」じゃなくていいじゃんって思われるかもですが、、、
の続きです!
「多言語」って決して「言語」だけをさすわけじゃないんです。
それに付随する「文化」もついてくる。
つまり、
世界中の色々な人の考え方もついてきます。
我が子には
そんな多様な世界でのびのびと生きていってほしい。
色々な人とであって 共に生きていると
「こうあるべき」「こうしなければ」とかいうのは
大概が思い込みだということに気づきます。
もちろん世界共通で「人を殺す」ことがダメとかそういうのはあります。
そんなしょうもない突っ込みをしてくる人はいないでしょうけど。
人それぞれの「当たり前」「普通」が違っていることに気づいたら
その人に合わせた、寄り添った行動ができる。
それも自分が苦しくない方法で 付きあえるようになるなって思います。
もちろん
社会に出て仕事をし始めたら色々大変で、、、
でも、そんなとき人生のベースに「多言語」という「多様性のベース」があれば
大概のことはいなして生きていけると思います。
「いなす」
つまり、衝突せずにかわしながら?的な感じです。
そんなわけで、
「日本」でいるから「多言語」いらないってのは違います。
「多様性」につながる大切なことだと思います。
相手との違いにばっかり目を向けるんじゃなく
その違いを楽しめたり
違うと思っていた中から「同じ」を見付けられるようになるって本当に素敵だと思います。
さらにいうと、
今後今よりもっと日本で生まれ育った人以外の人が日本で生活をすることは間違いありません。
そんな中で、
ここは「日本だから」という理由だけで
こっちの価値観だけを押しつけ続けるのは違うんじゃないかなと、、、
そんなわけで、
「多言語」
この可能性はかなり大きいし広いなと改めて思いました。
前回の続きで書いたので、タイトルにBebeメタが入ったままですが、
Bebeメタとは
直接は関係なさそうだけど、
でも、やっぱり
Bebeメタのことを書き始めた流れで出てきた思いだしと思ってそのままこのタイトルにしておきました。
それにしても、
改めてこうして考えてみると
生まれたときからこの多様な環境が当たり前で育つことのメリットってかなり大きい気がします。
とっても優しくてやわらかい人になれる気がする。。。
実際Hippoで育った子たち、、、そういう人ばっかりだなぁって思います。
優しくて やわらかい。。。
人に対してもだけれど、
自分に対しても「やわらかさ」は大切で、
ややこしい時代を生き抜くには必要不可欠な気がします。